2009年06月16日

電子レンジの調理方法についても発展が見られた

電子レンジの調理方法についても発展が見られた。高機能化した電子レンジではなく単機能の電子レンジであっても、従来の「冷めた料理を温める」「冷凍食品を解凍する」といった使い方のほかに、加熱調理器具としての位置づけも獲得してきている。

電子レンジであたためを行う場合、通常は器にラップをかけて行う。これにより、食品をあたためた場合に発生する水蒸気を副次的に利用し、蒸すのに類似した効果も同時に得ることができる。
水分の蒸発による食材のパサつきも抑えることになる。ただし、水分量が多いとふやけてしまうような食材(パンや揚げ物など)は逆にラップをかけないで、食品の下にクッキングシートをひいて余計な水蒸気を逃がし食品を皿の上で結露した水によってふやかさせないなどの工夫も行なわれる。
野菜、とくに火が通りづらい根菜類をあたためることで、温野菜を作ることができる。これは食材のしたごしらえとしても行われる。最近はレンジパックなどの、より簡単に温野菜をつくれる調理グッズも出てきている。
ケーキのようなものも、電子レンジを用いて作ることができる。食感は蒸しケーキに似る。
サツマイモのような、水分の少ない食材を暖める場合は、全体を霧吹きなどで濡らし、水分を補ってから新聞紙かラップにくるんでから暖める。中華まんの場合は水をかけてからラップでくるんで加熱される。
なお、電子レンジ調理は通常の加熱調理などとは異なり、特定部分だけが加熱されたり、食材の内部から加熱されるような動作をする。この点は火が通りにくい食材を加熱する場合のメリットともなる反面、その特性を理解しない利用によりトラブルの原因となることもある。
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電子レンジ調理の際、容器自体は加熱されないが、食品から熱が伝達して容器が熱くなる場合があるので、容器の耐熱性や取り扱いには十分注意する。必要に応じて鍋掴みを用いたり、あら熱を取ってから食品を取り出すようにすることも火傷の事故を防ぐ手段となる。
密封された冷凍食品や透明袋入りのレトルト食品を加熱する場合は、パッケージの指示に従って、一部を切るなど、蒸気の逃げ場を作る必要があり、これを怠ると容器が破裂する場合もある。スナックフードなどプラスチック袋で包装されたものなども同様で、パンパンに膨れたパッケージを破る際には蒸気でやけどする場合があるため、加熱前に穴をあける。
レトルトカレーなど遮光性を目的としたアルミ蒸着フィルム(不透明なもの)のレトルトに入った食品は加熱できないため、事前に陶器などの容器にあけて加熱する必要がある。
縦長のコップなどの深い容器で液体を加熱すると、突沸と呼ばれる沸点にある液体が外部からの振動などの刺激により、突然爆発したかのように沸騰する現象が発生する危険性があるので注意が必要である。加熱後に取り出そうとして突然の沸騰に驚いて容器を倒し、こぼれた中の液体で火傷する危険もある。
基本的に、電子レンジで液体(飲み物)を沸騰させるようなことは避けた方が望ましい。湯を沸かすための広口の専用容器を附属している場合は、指定の容器を使うことが望ましい。
他にも、電子レンジ加熱に不向きな食品や、過剰な加熱でトラブルを起こす食品もある。

膜や殻で覆われているもの(鶏卵、銀杏、栗、ソーセージ、飴など)は破裂する危険があるので、これらの食品は極力電子レンジで調理しないこと。やむをえない場合は蒸気を逃がす穴や切れ目をつくる必要がある。殻が無くてもおでんの卵・スコッチエッグなど調理済みの卵料理も「加熱されたところほど固くなる」という性質もあり注意が必要。大きな塊の肉料理も過度に加熱すると破裂することがある(豚の角煮やラフテイなど)。
炭化した物(焦げのあるもの・焼き芋など)を長い時間温めると、スパークを起こして発火し調理中に燃え出す可能性がある。
加熱はできるが焦げ目はつかないため、トーストはうまく作れない。生地が乾燥し噛み切れなくなる。ただし冷凍食品の中には「焦げ目がつくよう工夫されたもの」も存在する。
なお、揚げ物料理(フライ・カツレツ・コロッケ・天ぷらなど)を温めなおす場合、クッキングシートと呼ばれる特殊加工された紙を皿の上に敷いて加熱すると比較的揚げ立ての風味(食感)を保ったまま加熱することが可能である。余剰な水蒸気がクッキングシートを通り抜け、皿の表面で結露しても揚げ物をふやかせることないためである。これは冷凍したパンの解凍においても同様であるが、加熱時間が長過ぎるとパンが乾燥してしまう場合もある。

2009年05月30日

帥升(すいしょう)は、弥生時代中期?後期の倭国王

『後漢書』孝安帝紀東夷伝に、安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述があり、これが帥升に関する史料の全てである。帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が日本史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。

帥升に先だって、57年に倭奴国(倭の奴国?)の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬(「漢委奴國王印」)を授けられているが、帥升については生口を献じ謁見を請うたことしか記述がない。このことから、倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升は王と認められなかったとする説がある。一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。
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「帥升」が、姓名であるのか(「帥」=姓、「升」=名)、名であるのか(「帥升」=名)は議論が分かれている。中国に「帥」という姓が非常に希なため、「師」升の誤記ではないかとする説もある。同様に「升」を「斗」の誤記とする説もある。また、支持は集めていないが、「帥升」ではなく「帥升等」で一つの名だとする説や、「帥」を名ではなく職名(元帥を意味するか)とする説も提出されている。

帥升の所在地も様々な説があるが、憶測の域を出ない。『後漢書』に「倭面土國王」とあり、通常は「倭國王」の誤記だと考えられている。しかし、研究者のごく一部は、「倭面土國」という国が存在し「ヤマト」と読んだとして、現在の奈良県に比定しているが、ほとんど支持を得られていない。この他、帥升は奴国王位を継承したとする説、伊都国王だったとする説などがあるが、北部九州に所在していただろうという点で、ほとんどの研究者が一致している。

2009年04月27日

宇宙条約

月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約(つきそのたのてんたいをふくむうちゅうくうかんのたんさおよびりようにおけるこっかかつどうをりっするげんそくにかんするじょうやく、英:Treaty on Principles Governing the Activities of States in the Exploration and Use of Outer Space, including the Moon and Other Celestial Bodies、英略称:Outer Space Treaty)は、国際的な宇宙法の基礎となった条約。宇宙空間における探査と利用の自由、領有の禁止、宇宙平和利用の原則、国家への責任集中原則などが定められている。通称は宇宙条約だが、「宇宙憲章」と呼ばれることもある。

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第1条で規定されている。天体を含む宇宙空間の探査および利用は「すべての国の利益のために」「国際法に従って」全人類が自由に行うことができる。

第2条で規定。天体を含む宇宙空間に対しては、いずれの国家も領有権を主張することはできない

第4条で規定。核兵器など大量破壊兵器を運ぶ物体(分かり易く言えばミサイル衛星)を地球を回る軌道に乗せたり、宇宙空間に配備してはならない。

また、月その他の天体はもっぱら平和目的のために利用され、軍事利用は一切禁止される。

第6条、7条で規定。宇宙活動を行うのが政府機関か非政府団体かに関わらず、自国によって行われる活動については国家が国際的責任を負う。打ち上げられた宇宙物体が他国に損害を与えた場合、打ち上げ国には無限の無過失責任が発生する。

2009年04月11日

スカボロー・フェア

(Scarborough Fair)は英国の伝統的バラッドである。この歌の舞台は中世末期まで遡り、その頃ヨークシャー地方(現 ノース・ヨークシャー州)の北海沿岸の行楽地スカボローは英国中の商人の重要な交易場だった。そこには道化師や手品師が集い、8月15日には45日間の巨大な長期間の市が始まる。これがタイトルになっている Scarborough Fair (スカボローの市)である。市の期間中は、英国中や大陸からさえも人々がスカボローへ商売をしに集まった。

この歌は16?17世紀に、『エルフィンナイト』 (チャイルド・バラッド No. 2)という古いバラッドを作り変えたものであると言われている。吟遊詩人が町から町へ歌を伝え歩く内にそれは変わっていき、何十もの詩が出来上がった、しかし典型的に歌われたものは少なかった。サイモン&ガーファンクルによって有名になった編曲は19世紀末に生まれたものである。

この歌は恋人に捨てられた若い男が、冗談げに彼女に縫い目なしで彼のシャツを縫ったり、それを乾いた井戸で洗うような一連の不可能な仕事を成し遂げれば、彼女を取り戻すだろうと聞き手に言う話をしている。しばしばデュエットで歌われ、男性が一旦歌い終わった後女性が恋人へ同様にできない仕事を成し遂げられれば縫い目の無いシャツを与えることを約束する。

歌詞 [編集]
以下はデュエット向けの歌詞である:

歌詞 訳
BOTH
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.

MAN

Tell her to make me a cambric shirt,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Without no seam nor fine needlework,
And then she'll be a true love of mine.

Tell her to wash it in yonder dry well,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Which never sprung water nor rain ever fell,
And then she'll be a true love of mine.

Tell her to dry it on yonder thorn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Which never bore blossom since Adam was born,
And then she'll be a true love of mine.

Ask her to do me this courtesy,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And ask for a like favour from me,
And then she'll be a true love of mine.

BOTH

Have you been to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me from one who lives there,
For he once was a true love of mine.

WOMAN

Ask him to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Between the salt water and the sea-sand,
For then he'll be a true love of mine.

Ask him to plough it with a sheep's horn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And sow it all over with one peppercorn,
For then he'll be a true love of mine.

Ask him to reap it with a sickle of leather,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And gather it up with a rope made of heather,
For then he'll be a true love of mine.

When he has done and finished his work,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Ask him to come for his cambric shirt,
For then he'll be a true love of mine.

BOTH

If you say that you can't, then I shall reply,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Oh, Let me know that at least you will try,
Or you'll never be a true love of mine.

両方
スカボローの市へ行くのかい?
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
そこに住むある人によろしく言ってくれ、
彼女はかつての恋人だったから。

カンブリックのシャツを作れと伝えてくれ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
縫い目も細かい針仕事もなしで、
そうしたら彼女は私の恋人。

あすこの涸れた井戸でそれを洗えと伝えてくれ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
そこは水も湧かなければ雨も降った事もない、
そうしたら彼女は私の恋人。


あすこのイバラにそれを干せと伝えてくれ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
それにはアダムが生まれて以来花が咲いた事がない、
そうしたら彼女は私の恋人。

この挨拶をしてくれるように頼んでくれ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
つまり私に同じような頼み事をするように、
そうしたら彼女は私の恋人。

両方

スカボローの市に行ったかい?
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
そこに住むある人によろしく言って、
彼はかつての恋人だったから。

1エーカーの土地を見つけるよう言って、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
塩水と海砂の間にあるやつを、
そうしたら彼は私の恋人。

羊の角でそこを耕すよう言って、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
それから一面コショウの実を蒔けと、
そうしたら彼は私の恋人。

革の鎌でそれを刈るよう言って、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
それからヒースのロープでまとめろと、
そうしたら彼は私の恋人。

彼がそれをやってできたのなら、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
カンブリックのシャツを取りに来るよう言って、
そのとき彼が恋人になるから。

両方

できないと言うのなら、私はこう答える、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
ああ、せめてやってみると知らせてくれ、
でなければあなたは私の恋人なんかじゃない。

解釈 [編集]
"parsley, sage, rosemary and thyme"の繰り返し句は現代人にはよく理解できないが、象徴的意味に満ちている。パセリは今日まで消化の助けになり、苦味を消すと言われており、そして中世の医者はこれを霊的な意味としても捉えた。 セージは何千年もの耐久力の象徴として知られている。ローズマリーは貞節、愛、思い出を表し、現在でも英国や他のヨーロッパの国々では花嫁の髪にローズマリーの小枝を挿す慣習がある。 タイムは度胸の象徴であり、歌が書かれた時代、騎士達は戦いに赴く際に楯にタイムの像を付けた。 歌での話し手は、4種のハーブに言及することで、二人の間の苦味を取り除く温和さ、互いの隔たった時間を辛抱強く待つ強さ、孤独の間彼を待つ貞節、出来ない仕事を果たす矛盾した度胸を具えた真の恋人、そして彼女がそれらをできた時に彼の元に戻ってくることを望んでいる。

"parsley, sage, rosemary and thyme"は、当時のハーブ売りが用いていた、売り口上の決まり文句である。 日本の例でいえば、「さおだけ?さおだけ?」や「ほっかほかの焼き芋?本場薩摩の焼き芋だよ」や、「魚安いよ、今日のおかずに秋刀魚いかが?」などのようなもの。つまりは自分がハーブ売りであること、ハーブを売るものが来たことを皆に知らしめるために節回しをつけて言われていたのである。

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ


2009年03月27日

ユリア100式

汎用人型ダッチワイフのユリア100式と大学生の久保瞬介が繰り広げるコメディー。成人指定スレスレの内容で話題を集めている。2005年?2006年に読みきりが3回掲載後本誌連載決定した。

2006年12月、神奈川県では神奈川県青少年保護育成条例を根拠とし、有害図書類に指定された。そのためか本屋では、コミックスが成人漫画の場所に置かれている事もある。

作中はツッコミにプロレスの技が用いられるなど、その関係の話題も多い。各話のタイトルはなにかしらのパロディ、もしくはプロレスに関係したものになっている。

2008年にドラマCD化が決定した。

あらすじ [編集]
20XX年、秋葉歩博士は全男性の夢であるダッチワイフ「ユリア100式」を完成させた。早速、博士はユリアと性交しようとするが、何とユリアは博士の元から逃げ出してしまう。そして、ユリアは大学生・久保瞬介に拾われた事を機に、彼と同棲する事になるのだが…。

ドールたち(普通では無い人々) [編集]
ユリア100式(CV:喜多村英梨)
最新型ダッチワイフ(ラブドール)である。スリーサイズはB88 W52 H86。最初にセックスした男性の男性器をインプリンティング(記憶)して、その人の一生の性欲の奴隷となる。巨乳で、ドジっ娘だったりなど、ロボットとしてより性欲の対象として気に入られる為に作られており、ダッチワイフとしての様々な技術・機能を持つ。恋愛感情等よけいなものはプログラムされていないはずだが、瞬介相手に恋愛感情らしきものが芽生えつつある。とはいってもやはり精密機械なのでエアコンやテレビなどのリモコンから発せられる電波に反応して誤作動を引き起こす(一般的にはこれらの家電リモコンは赤外線を使っているのでありえないのだがそこはご愛敬)。
秋葉博士から逃げた際、久保瞬介と出会ってそのまま同棲を始める。性欲旺盛に作られており毎回瞬介にセックス(インプリンティング)を求めるが拒否される。妄想力も逞しく、その度に鼻血(のようなもの)を噴出する(ユリアの妄想→鼻血が、作品のお約束のオチでもある)。
ユリア105式(CV:伊藤静)
通称ジュリア。B95 W54 H92のダイナマイトボディーを持つ。ユリアよりさらに優れた性能を持つが、高性能すぎて前戯だけで相手が達してしまうため、インプリンティングができないという悩みを持つ。自分がダッチワイフだと言う事を頑なに否定し、ラブドールだと言い張る。何故かユリアに対抗心を抱き、瞬介を奪おうと強姦まがいのインプリンティングを試みるが、メキシカンレスラー宜しくフィニッシュホールドを食らい失敗。その後良夫に引き取られるが、良夫が18歳未満のためインプリンティングを保留している。
良夫の母親の前では自ら動作を停止し、等身大のフィギュアを装っている。なお、ユリアとの会話から、自分の存在が良夫の母親にあらぬ誤解を生んでいることは理解している模様。何故か登場人物の中でもかなりの常識人。良夫の趣味なのか本人が気に入っているのか、最近はメイド服着用する事が多い。
ユリア108式(CV:後藤麻衣)
通称ユリン。それまでのユリアシリーズとは路線を変えた少女型で、ユーザーが育成する楽しみを得られるような設定が施されている。身長152cm。B70 W54 H68だが、ユーザーが刺激することによってバストは最大Hカップ、ヒップは最大98cmまで成長する。例によって博士のところから逃げ出し、瞬介の家に転がり込む。後に公園で一平に持ち帰られる(ユリン自身によってなぜかイタズラ目的で連れていかれたことになっている)。純真な子どもっぽい振る舞いをするが、実際には腹黒い。
ルーシーMarkII
秋葉博士に対抗してアメリカの博士(名前不明)が製作した汎用人型プレイドール。ユリアシリーズをライバル視し、世界のアダルトグッズ市場をアメリカが独占することを示すために日本に来た。普段は外人アイドルとして活動している。インプリンティングシステムはなく、不特定多数の人とプレイできるようにフリーセックスシステムを採用している。このため、一部の登場人物を除き「寸止め」は適用されない。
基本的に欧米向けに作られているのでアグレッシブでオーバー。そのため、そのアピールを見た男性がドン引きすることもしばしば。欧米向けなので自己主張も非常に強く、文句も多いが、愛想は良い。
現在は芸能人としてデビューしている。デビュー以来ロクにエッチな事ができない為、本人はヌードかAVの方がいいらしい。
ルーシーMark3.5
ルーシーシリーズの一機。56話より登場。少女型のMarkIIIと、女性向けダッチハズバンドのMarkIVが並行して開発されていたが、途中で開発資金が尽きたため、MarkIIIの上半身にMarkIVの下半身をくっつけるという強引な手法で完成を見た(ナンバリングが3.5となっているのはこのせい)。そのため、見た目はボーイッシュな少女だが、股間にはキングサイズのペニスが鎮座ましましているというふたなり状態になってしまった。意識は完全に女性であり、男性とセックスがしたいと思っている。
ユリアシリーズを打倒すべく、MarkIIに次いで日本に送り込まれる。ルーイと名乗り、日本の一般家庭にホームステイするも、ホストファミリーの女子高生に、下半身が男であることを知られてしまう。ところが、その女子高生が腐女子であったために大いに歓迎され、ボーイズラブの知識を植えつけられる。

普通(?)の人々 [編集]
久保瞬介(CV:日野聡)
ひょんなことからユリアに出会い、同棲することになる大学生の青年。彼女持ちのためユリアの誘惑を断固として拒否し、毎回何かにつけてセックス(インプリンティング)に持ち込もうとするユリアを寸前でかわす毎日。
理性の強さは作品随一で、ユリアの性能を持ってしても射精に至ったことすら殆ど無い。プロレス等の格闘技に長け(反則技も含め)、その技でユリアの誘惑を強引に断ち切る。数々のプロレスの技はこの作品の定番のオチでもある。
中村まりあ(CV:小清水亜美)
瞬介の地元の名家のお嬢様で許嫁。ユリアが瞬介と一緒に住んでいることに納得していない。箱入りで潔癖症。お嬢様であるためラブホテルのことがよくわからなかったり、プライドが高く3分以上凌辱に耐えられなかったりする。
秋葉歩博士(CV:藤原啓治)
秋葉研究所所長、ユリアシリーズの製作者。3式(ただのコンニャク)や28式(空気充填式のダッチワイフ)などの試作を経て、遂には100式を始めとする自意識を持ったダッチワイフまで創り出した生体科学の権威。しかしその行動は変質者そのもので、100式、105式、108式と、作ったダッチワイフたちに逃げられては全裸のまま探し回って逮捕されている。
瞬介が通う大学の教授も務めている。
良夫(CV:阪口大助)
元々は、瞬介がアルバイトの家庭教師としていくはずだった生徒。かなりのフィギュアマニアで、自作もしたりする。高校のフィギュア同好会の会長でもある。当初はユリアに、後にジュリアにときめいた末、行き場を失ったジュリアを引き取った。彼はジュリアがラブドールであることを知らないが、親には誤解されている。まだ高校生(17歳3ヶ月)であるため、18禁の世界に入ることはできない。後にジュリアがラブドールであることを知ってしまうがまんざらでもない様子(誤解混じりではあるが)。
良夫ママ(CV:勝生真沙子)
38歳。夫は仕事の都合で単身赴任中。息子の大きなお人形さん趣味を許容しつつも、大夫心労がたまっているようである。彼女が105式と一緒にいる良夫を見かけるのも、この作品定番のオチである。
山本一平(CV:近藤孝行)
小学校の教師を目指す、21歳の大学4年生。なりゆきでユリンを誘拐してしまったことになっている。一人暮らし。
中村薫
ルーシーMark3.5のホームステイ先の高校3年生。アルゼンチンバックブリーカーをされながらやってきたルーイの股間の逸物に驚きを隠せなかったが、ルーイの事情を聞き、「日本にはBLの文化がある」と、ボーイズラブの知識を植えつける。なかなかの美人だが、典型的な腐女子。
横山明(CV:楠見尚己)
度々登場する久保瞬介バイト先の責任者。店に娼婦を連れ込んだり、撮った写真をその筋の投稿雑誌に送ったり、ギャグ大会では下ネタ全開の漫才をしたりと、まったくその系統への歯止めが利かない人。当然この方も大人なので寸止めは適用されない。35話にて投稿した記事より48歳との表記があるが定かではない。
氷川光秀(CV:安元洋貴)
瞬介の通う大学のプロレス同好会会長。名前は某プロレスゲームのキャラクターの名前そのまんまであり、モデルも当然あの御方である。
川田&小川
瞬介の友人たち。瞬介とユリアの絡みをよく目撃する。瞬介的には寸止めなのだが、彼らにすればどう見てもアウトにしか見えない。まりあに逐次様子を教えるある意味友達想い連中・・・なのだが、表現の仕方がまずいのか、撮った記録がまずいのか、まりあには誤解を招く形で常に報告がなされている。こちらは元ネタはまんまプロレスラーの名前である。
金田国彦
24歳の芸能事務所マネージャー。アイドル好きが高じて職に付いたが、自分の求めるアイドルに出会えずにいた所、ルーシーを見かけスカウトする。ナンパと勘違いしたルーシーに最後までやられてしまうも、事後、なんとか説得。ルーシーを理想のアイドルとして売る事は本気であり、必死にサポートするも、ルーシーの特性故に前途多難の日々である。
ルーシー曰く小さいらしい。大人でありルーシーが相手の為、彼にも寸止めは適用されない。単行本では先行して6巻のおまけ漫画に登場している。
下山先生
数々の売れっ子アイドルを手がけたスゴ腕カメラマン。ルーイですら許容する度量の深さと、被写体がカラんでいようが関係無しの技量を持つ。
解説(CV:四宮豪)
ユリアやジュリアがおこなう行動に対し『ダッチワイフである○○は』から始まる解説(ユリア100式またはユリア105式、ユリア108式マニュアル)がはいる。人物ではないが、ある意味もっとも個性的と言えるキャラである。

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2009年03月11日

ブルー・ナ・ボーニャ

ブルー・ナ・ボーニャ(Brú na Bóinne, ボインの宮殿)は、アイルランドのボイン川の屈曲部に位置する新石器時代の石室墳、立石、その他先史的遺跡群の複合体で、国際的にも重要なものである。時代が下ると、鉄器時代には墓地として使われ、中世にはノルマン人が入植した。また、1690年にはボイン川の戦いの舞台にもなった。

この一帯はしばしばボイン渓谷 (Bend of the Boyne) と呼ばれ、不正確にも「ブルー・ナ・ボーニャ」それ自体を指すときにも使われることがある。世界遺産に登録されているのは、アイルランドの国定史跡にもなっている部分である。
面積は780haで、他の先史的遺跡群と同じような40の羨道墳を含んでいる。史跡の大部分は、川の北側に集中している。ブルー・ナ・ボーニャで最も有名な遺跡は、巨石群の特筆すべき集積体であるニューグレンジ (Newgrange)、ノウス (Knowth)、ドウス (Dowth) の各墳墓である。それらは川の屈曲部の稜線に立てられており、ノウスとニューグレンジは、より古い史跡で使われていた石を再利用しているようにも見える。この地でのより早い活動の痕跡は、中石器時代の狩人が遺したらしい火打石などを除けば、発見されていない。

川の屈曲部では、他にも多くのエンクロージャーや巨石遺跡が確認されている。上掲の3つの墳墓に加えて、いくつかの祭祀場が次のような遺跡を形成している。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

ドウス・ホール羨道墳群 (Dowth Hall passage graves)
Cloghalea Henge
タウンレイホール羨道墳 (Townleyhall passage grave)
モンクニュータウンヘンジ (Monknewtown henge) と祭礼の泉 (ritual pond)
Newgrange cursus
3つの主要巨石遺跡は、天文考古学上の重要な意味も持っている。ニューグレンジとドウスは冬至の太陽に対応し、ノウスは春分の太陽に対応しているのである。隣接する遺跡群についても、他の対応関係がないか検討されている。また、渓谷のブルー・ナ・ボーニャのレイアウトやデザイン自体も、天文学的意味の検討がなされている。

ボイン渓谷の西側、東側、南側が囲まれているように、北側はボイン川の支流であるマトック川が流れており、ほとんど完全に水に囲まれているようなものである。2つの先史的遺跡を除けば、全てがこの川の地峡に存在しているのである。

ブルー・ナ・ボーニャ案内センター
ニューグレンジとノウスへはガイド付きツアーでしか立ち入れない。ツアーは、ブルー・ナ・ボーニャ案内センター (Brú na Bóinne Visitor Centre) から出発することになっている。

2009年02月23日

トルコ語 (Türkçe)

トルコ語 (Türkçe) は、トルコ共和国などの公用語で、テュルク諸語のうち最大の話者数をもつ言語。トルコ共和国の人口約7200万人の他、ブルガリアに約75万人、ギリシャに約15万人、キプロスに約25万人の話者がいる。ドイツなど西ヨーロッパのトルコ系移民社会(200万人以上)でも話されているが、現地で生まれてトルコ語が満足に話せない若者も増えている。

イスタンブル方言を基礎とする共通語を持つ。文章語はオスマン帝国時代にイスタンブルのエリート階層の人々が使用していたオスマン語を、アラビア文字表記からラテン文字表記に改め、アラビア語とペルシア語の語彙・語法を減らして簡略化したものを基礎とする。アラビア語・ペルシア語からの借用語が極めて多い他、日常語にはギリシャ語・ブルガリア語など周辺の言語からの借用語も多く、近代に入った外来語にはフランス語からのものが多い。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

単語の末尾に日本語の助詞や助動詞にあたる接尾辞を付着させて文法関係を示す膠着語であり、語順も日本語に似て、原則として主語を文の先頭、述語を文の末尾に置く。母音調和を行うことも大きな特徴である。

^ Ğ/ğは「ユムシャック・ゲー」(yumuşak G/軟らかいG)と言い、本来は喉の奥で出すガの摩擦音 [?] または y と同じ半母音 [j](平凡社百科事典、白水社エクスプレスなど)であったが、現代トルコ語では以下のように発音する。
音節頭および母音間では、ほとんど発音しない。 - 例:「ボスポラス海峡」Boğaziçi [boazit∫i]
音節末では、直前の母音を長母音化する。- 例:「山」dağ [da:]
ちなみに、ヨーグルト(独Yoghurt)のghもこれである (yoğurt)。
^ SAMPAは/M/。
現代トルコ語には、a、e、ı、i、o、ö、u、üの8母音があり、下の表のように分類される。
日本語の前舌、後舌母音のことをトルコ語では「細い母音(ince ünlü)」「太い母音(kalın ünlü)」という。前舌母音と後舌母音はそれぞれ一語中で共存せず、非円唇母音と円唇母音、広い母音と狭い母音がそれぞれ整然とした対応関係を持つ。


2009年02月07日

足利義詮・足利義満

足利 義詮(あしかが よしあきら、元徳2年6月18日(1330年7月4日) - 正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日))は、室町幕府2代将軍。足利尊氏の第三子で嫡男。母は北条久時の娘の赤橋登子で、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時の妹に当る。正室は渋川義季の娘の渋川幸子。幼名は千寿王(せんじゅおう)。子に足利義満、足利満詮など。官位は正二位権大納言、贈従一位左大臣。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・尊氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれる。

尊氏が丹波国で鎌倉幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い義詮(千寿王)は、細川氏などの足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞に奉じられ鎌倉攻めに参加した。この際千寿王は、父・尊氏の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。建武の新政では、叔父である足利直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。

尊氏による足利幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。1351年には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。翌年に南朝の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇の三上皇を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇を即位させる。また1353年にも足利直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。

将軍就任後
1358年(正平13年/延文3年)に尊氏が没し、義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州地方では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。更に幕府内では仁木義長と細川清氏・畠山国清が対立し義長は南朝へ降り、さらに室町幕府執事(管領)の清氏が佐々木道誉の讒言で離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。1363年には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、南朝との講和も進んでいた。1365年には三条坊門万里小路の新邸に移っている。清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任じ、斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する。また、訴訟手続の整備なども行う。

1367年(正平22年/貞治6年)に、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男義満を細川頼之に託して、病により死去する。享年38。同年3月5日には弟基氏が義詮に先立ってなくなっている。

彼の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい。」とあり、遺言どおり、楠木正行の墓(五輪石塔)の隣に彼の墓(宝筐印塔)は建てられた。

通称と邸宅
三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となった。足利義満は再び、天皇家から「花亭」を譲り受け、邸宅を営んだ。世にいう花の御所である。

法名:寶篋院瑞山道權
墓所:京都府京都市北区の萬年山等持院。また、京都府京都市右京区の善入山宝筐院。また、静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院。
木像:等持院所蔵。
江戸時代末期に尊皇攘夷派により尊氏、義満の木像と合わせて三条河原に梟首される事件が起こる(足利三代木像梟首事件)。

人物
古典『太平記』では、酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれているが、実際には父尊氏が不在の際に半済令を発して武家の経済力を確保する一方、兄直冬の侵攻により幕府が窮地に陥った際も神南の戦いでこれを破るなどの軍功もあり、さらに細川清氏の失脚、斯波氏の失脚(貞治の変)を利用して守護勢力を抑制して将軍権力を高めるなどの政治力も発揮している。また、義詮時代に大内弘世・山名時氏ら有力守護が南朝から北朝(幕府)へ帰順するなど、南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない。太平記は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章(巻第三十七)で物語を終えている。

(官職位階履歴) ※日付=旧暦

1335年(建武2年)4月7日、従五位下に叙す。
1344年(興国5年/康永3年)3月16日、正五位下に昇叙。3月18日、左馬頭に任官。
1347年(正平2年/貞和3年)12月3日、従四位下に昇叙。
1350年(正平5年/観応元年)8月22日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。
1356年(正平11年/延文元年)8月23日、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。
1358年(正平13年/延文3年)12月18日、征夷大将軍宣下
1359年(正平14年/延文4年)2月4日、武蔵守兼任。
1363年(正平18年/貞治2年)1月28日、権大納言に転任。7月29日、従二位に昇叙。権大納言如元。
1367年(正平22年/貞治6年)1月5日、正二位に昇叙。12月7日、薨去。12月20日、贈従一位左大臣。

系譜
父:足利尊氏
母:赤橋登子
兄弟
足利基氏
足利直冬
正室:渋川幸子
子:千寿王
側室:紀良子
子:足利義満
子:足利満詮
生母不明の子女
柏庭清祖
廷用宗器
女子(宝鏡寺殿。恵昌?)

足利 義満(あしかが よしみつ)は室町幕府の第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。官位は従一位太政大臣、贈正一位。封号は日本国王。幼名を春王という。父は室町幕府第2代将軍・足利義詮で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘である日野業子で、後光厳天皇の寵姫である日野宣子(岡松一品)の介添えで義満の室となる。その後、業子のあとは業子の姪である日野康子が正室となる(のちの北山院)。側室は足利義持と足利義教の生母・藤原慶子、足利義嗣の生母・春日局など。

義満が御所を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

1358年(正平13年/延文3年)に生まれる。尊氏の死から丁度100日目のことである。義満が幼少の頃の室町幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、1361年(正平16年/康安元年)には清氏や南朝の楠木正儀らに京都を占領され、義満は赤松則祐の居城播磨国白旗城へ避難を余儀なくされた。翌年には幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津の国に泊まった際にその場所の景色が良い事が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという(と史書は伝えるが、作家の海音寺潮五郎は単なるわがままであるとしている)。1367年(正平22年/貞治6年)に父・義詮が病により死去すると、義満は11歳で3代将軍となる。

1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領の細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固める。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎える。

さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。1378年(天授4年/永和4年)には幕府を三条坊門より北小路室町に移した。移転後の幕府は後に花の御所と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ばれるようになる。朝廷と幕府に二分化されていた京都の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆や奉行衆と呼ばれる実務官僚を整備する。また、1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河国で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社参詣などの権力示威行為(デモンストレーション)も行っている。

権力強化と南北朝合一
1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。

1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。

また、義満は1378年(天授4年/永和4年)3月に右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5ヶ月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。翌年8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、1380年(天授6年/康暦2年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて寺社勢力に大打撃を与えた。[1]

義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣へ就任し官位の昇進を続けた。1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和・奨学両院別当を兼任、准三后の宣下をうけ、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。

1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消されるかたちでの南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる。

義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年(応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家が追従して出家している。

1395年(応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。

勘合貿易と北山文化
義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の年号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉[2]であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の年号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には年号を変えさせなかった。そのため、応永年号は明治以前では最も長い年号となった。

義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中華皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は臣下ではない自由な立場となった。

1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。

遣唐使の廃止以来、独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。

1397年(応永4年)には藤原公経から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。

晩年と死後
1408年(応永15年)、急病のために死去、享年51(満49歳没)。法名:鹿苑院天山道義。 等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明期に火災に遭い、鹿苑院は廃寺となった。そのため、彼の墓は未だ不明だが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に安置されている。

義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所とよばれるようになった。

6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政をはじめるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度をとりはじめる。

皇位簒奪と暗殺説
田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死が突然だったため、これは義満の皇位簒奪を阻止するための暗殺ではないかとの意見を提示している。

義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。

なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権をもつ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。

暗殺説を取る者は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理)。また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。

しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたりその死を暗殺と疑った記録はなく、皇位簒奪計画や義満暗殺の直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。

今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[4]で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年(しかし現在では亥年生まれとされる)生まれ、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、源氏物語をヒントにしているのではないかと推測している。

義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。

] 官歴
※()=旧暦
1367年1月7日(正平21年/貞治5年12月7日)、従五位下に叙す。12月24日(正平22年/貞治6年12月3日)、正五位下に昇叙。12月28日(12月7日)、左馬頭に任官。
1368年5月2日(正平23年/応安元年4月15日)、元服し、義満と名乗る。
1369年1月28日(正平23年/応安元年12月30日)、征夷大将軍宣下。
1374年1月7日(文中2年/応安6年11月25日)、従四位下に昇叙し、参議に補任。左近衛中将を兼任。
1375年12月13日(天授元年/永和元年11月20日)、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。
1378年4月21日(天授4年/永和4年3月24日)、権大納言に転任。9月19日(8月27日)、右近衛大将兼任。
1379年1月2日(天授4年/永和4年12月13日)、従二位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。2月4日(天授5年/康暦元年1月6日)、右馬寮御監兼務。
1380年2月11日(天授6年/康暦2年1月5日)、従一位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。
1381年8月13日(弘和元年/永徳元年7月23日)、内大臣に転任。右近衛大将如元。
1382年2月9日(弘和2年/永徳2年1月26日)、左大臣に転任。右近衛大将如元。3月4日(閏1月19日)、蔵人別当兼務。5月11日(3月28日)、牛車を許される。
    5月24日(4月11日)、後円融院別当兼務。
1383年2月16日(弘和3年/永徳3年1月14日)、源氏長者、淳和奨学両院別当兼務。7月26日(6月26日)、准三宮宣下。
1384年4月8日(元中元年/至徳元年3月17日)、右近衛大将辞任。
1388年6月30日(元中5年/嘉慶2年5月26日)、左大臣辞任。
1393年2月7日(元中9年/明徳3年12月26日)、左大臣還任。
1393年10月22日(明徳4年9月17日)、左大臣辞任。
1394年1月8日(応永元年12月17日)、征夷大将軍辞職。1月16日(12月25日)、太政大臣に転任。6月20日(応永2年6月3日)、太政大臣辞任。7月7日(6月20日)、出家(道有を号し、のち、道義と改める)。
1402年8月20日(応永9年9月5日)、明より日本国王に封ぜらる。
1408年5月31日(応永15年5月6日)、薨去。6月3日(5月9日)、太上天皇追号(幕府が辞退)。

主な家系
父:足利義詮(2代将軍)
母:紀良子(側室)
兄弟姉妹
千寿王丸
柏庭清祖
足利満詮
廷用宗器
女子(宝鏡寺殿。恵昌?)
正室:日野業子(日野時光娘)
女子
正室:日野康子(日野資康娘)
側室:藤原慶子(安芸法眼娘)
足利義持(4代将軍)
足利義教(6代将軍)
女子(入江殿聖仙)
側室:加賀局(長快法印女)
尊満(友山清師)
男子(宝幢若公)
側室:春日局(摂津能秀女)
足利義嗣
側室:寧福院殿
女子(大慈院聖久)
側室:藤原量子
側室:藤原誠子
梶井義承
側室:慶雲庵主(大炊御門冬宗女)
女子(光照院尊久)
側室:高橋殿
側室:池尻殿
女子
虎山永隆
(以下生母不明の子女)
仁和寺法尊
大覚寺義昭
本覚院満守
女子(法華寺尊順)
女子(六角満綱正室)
女子(摂取院主)
女子(宝鏡寺主)
猶子
斯波義重

義満の偏諱を受けた人物
九条満家
二条満基
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2009年01月22日

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(きゅうユーゴスラビアこくさいせんぱんほうてい、International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia)は、国際連合の安全保障理事会決議827によって1993年5月に設置された国際司法機関。正式名称は、「1991年以後旧ユーゴスラヴィアの領域内で行われた国際人道法に対する重大な違反について責任を有するものの訴追のための国際裁判所」。英語での略称は、ICTY(「アイシーティーワイ」又は「イクティ」と発音)。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ともいわれる。

設立の目的
1991年以後の旧ユーゴスラビア領域内で行われた、民族浄化や集団レイプなどの深刻な国際人道法違反について責任を有する者を訴追・処罰する。
旧ユーゴスラビアにおける和解を促進することにより平和再建に貢献する。

所在地
ハーグ(オランダ)

設置根拠
1993年5月25日、安全保障理事会決議[1] 
国際連合憲章第7章の下に行動する安全保障理事会により、非軍事的措置の一環として、安全保障理事会の補助機関(国連憲章第29条)という形で設置された。
旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程[2]

組織
ICTYではおよそ1200名のスタッフが働いている。ICTYは主に裁判局、検察局、そして書記局で構成されている。

裁判局は、裁判官とその補佐たちが含まれる。この法廷には3つの裁判部と1つの上訴裁判部がある。裁判部の裁判長は、上訴裁判部の裁判長も兼ねている。2005年よりイタリアのファウスト・ポカール(Fausto Pocar)が裁判長を務めている。それ以前の裁判長は、イタリアのアントニオ・カッセーゼ (Antonio Cassese) が1993年から1997年まで、アメリカのガブリエラ・カーク=マクドナルド (Gabrielle Kirk-McDonald) が1997年から1999年まで、フランスのクロード・ジョルダ (Claude Jorda) が1999年から2002年まで、アメリカのテオドール・メロン (Theodor Meron) が2002年から2005年までとなっている。

書記局は、法廷での記録、文書の翻訳、被告人や証人に対する通訳、広報だけでなく、経理や人事など、ICTYの運営を担当している。また、公判中に拘留される被告人に関する事柄や、弁護のための費用のない被告人に対する補助なども担当している。現在の書記長は2001年からオランダのハンス・ホルティウス (Hans Holthuis) が務めている。それ以前は、1995年から2000年までオランダの (Dorothée de Sampayo Garrido-Nijgh) が、1994年2月から同年12月まではオランダのテオ・ファン・ボーヴェン (Theo van Boven) が務めた。

検察局は犯罪捜査や証拠収集、起訴等を担当している。現在の検察局を率いている検察官はベルギーのセルジュ・ブラメーツ (Serge Brammertz) である。それ以前は、ベネズエラのラモン・エスコヴァル・サロム (Ramón Escovar Salom) が1993年から1994年まで、南アフリカのリチャード・ゴールドストーン (Richard Goldstone) が1994年から1996年まで、カナダのルイーズ・アルブールが1996年から1999年まで、スイスのカルラ・デル・ポンテが1999年から2007年までとなっている。カルラ・デル・ポンテは2003年までルワンダ国際戦犯法廷でも検察官を務めていた。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

管轄
領域的管轄・・・旧ユーゴスラヴィア領域内
時間的管轄・・・1991年1月1日以降
人的管轄・・・個人(自然人)
事項的管轄(対象犯罪)
ジュネーブ諸条約の重大な違反となる行為
戦争法規・慣例の違反
ジェノサイド罪
人道に対する罪

刑罰
拘禁刑(死刑なし)

最近の動向
2005年12月8日、デル・ポンテ主任検事は、150人以上のセルビア人を殺したジェノサイド罪や人道に対する罪で訴追され手配されていた、クロアチアのアンテ・ゴトヴィナ元将軍(50)を12月7日(スペイン現地時間)、カナリア諸島のホテルで逮捕したと発表した。ゴドヴィナは8日にいったんマドリードに移送されたのち、本法廷が所在するハーグに拘引されて公判が開かれた。
被告であった元ユーゴスラビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチが、2006年3月11日獄中で死亡した。
もとスルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチが2008年8月にセルビアで逮捕されICTYに移送された。

2009年01月15日

火薬(かやく:英 Explosive material )

ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

火薬(かやく:英 Explosive material )や爆薬(ばくやく:英 High explosives )とは、熱や衝撃などにより急激な燃焼反応をおこす物質(爆発物)のことを指す。また江戸時代には焔硝(えんしょう)の語がよくつかわれ、昭和30年代頃までは、玩具に使われる火薬を焔硝と言う地方も多かった。

火薬と爆薬の分類方法には色々な種類があるが、火薬類取締法上では「推進的爆発の用途に供せられるもの」を火薬、「破壊的爆発の用途に供せられるもの」を爆薬、火薬や爆薬を加工したもの(雷管、導火線、花火、銃砲弾、爆弾など)を火工品(かこうひん)と区別している。科学的な分類では、爆発速度が音速以下のものを火薬、音速以上のものを爆薬とする場合が多いが、まとめて火薬ということもある。また、さらに火薬を推進薬(すいしんやく)、発射薬(はっしゃやく)、爆薬を炸薬(さくやく)、起爆薬(きばくやく)、爆破薬(ばくはやく)、発光剤(はっこうざい)に分類することもある(外国では、容易に爆発しない安全な爆薬を「爆破剤」と分類することもある)。 いずれも爆発する物質であるため、本稿では火工品以外の全てを取り扱う。

通常の燃焼と同様に火薬を構成している物質が酸素と結びつくことで(これを酸化という)、火薬に蓄えられていたエネルギーが解放され、熱や光や衝撃が発生する。火薬の燃焼が通常の燃焼と異なる点は空気中の酸素を必要としないことである。例えばニトログリセリンでは炭化水素に結合した硝酸エステル(-O-NO2)が酸化剤の役割になっている。また、黒色火薬のような混合火薬では、燃料に硝酸カリウムなどの酸化剤を混合している。つまり、黒色火薬の場合、黒色火薬に含まれる炭、炭素を燃料とし、硝酸カリウムは反応を高速にする役割を果たしているに過ぎない。ちなみに、黒色火薬は硝酸カリウム、炭素、硫黄を配合して作る。混合火薬の場合、高効率で酸化反応を起こすため、酸化剤の配合比率を最適化することが重要である。また、組成中に酸素を含まなくても、フッ素の様に酸化剤として働き、酸化反応を引き起こすことができる物質が存在する。マグネシウムとフッ素が結びつく反応は大きなエネルギーを発生するため、これらの原料を用いることで酸素を用いない火薬を作ることができる。このような酸化反応で、大きな反応熱を発生する物質が火薬の材料に適している。こういった自己反応性物質は外部の酸素を必要としないため、二酸化炭素消火器のような酸素遮断による消火が不可能である。

火薬の反応には色々な種類がある。火薬にマッチなどで火をつけても、必ずしも爆発するとは限らない。一部の火薬では、マッチで点火してもロウソクのようにゆっくり燃えるだけだが、雷管で点火すると一瞬で全体が反応する(爆発)。またダイナマイトなどの一部の爆薬では、雷管の威力により低速爆発と高速爆発の2種類がある。ガソリンや木材が燃えるのを通常燃焼といい、火薬が高速で燃焼するのを爆発という。さらに音速以下の爆発を「爆燃」、音速以上の爆発を「爆轟(ばくごう)」と分類している。「爆轟」状態では燃焼速度が音速を越えるため、衝撃波を投射し周囲の物体を破壊する。「爆轟」発生の有無によって火薬と爆薬を分類することもある。「爆轟」によって生まれた衝撃波が弱まったものが、「爆音」になる。

火薬が燃焼を始めると、反応熱により酸化反応が促進され、継続的な燃焼が起きる。これに対し爆薬では、酸化反応は爆ごうの衝撃波による断熱圧縮によって促進される。このため、熱伝導に律速されることのない急激な燃焼が発生する。

火薬類の最大の特徴はそのエネルギーの発生速度にある。単純な熱量の比較だけなら火薬類よりもガソリンなどの方が大きい。しかし、半径10センチの球体のトリニトロトルエンを鋳造した場合、この塊が爆轟して反応が終わるまでの時間は僅かに14.7ナノ秒しかかからない。

半径10センチの鋳造トリニトロトルエンの重量は6.49キログラムであり、この爆発熱は約1.17×107ジュールである。これだけのエネルギーがわずか14.7ナノ秒の間に放出されるのである。

つまり、エネルギーの発生速度という点で見れば1.16×1012ジュール/秒となり、これは日本の総発電能力の数倍にもなる数字である。

こうした火薬の能力は主にその分子構造に依存している。一般に複雑で緻密な構造の分子ほどその中に蓄えられているエネルギーが大きく、高い爆発力を持つ火薬となる。近年ではヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン (HNIW)の様に、コンピューターシミュレーションにより理想的な分子構造を決定し、それを基に合成された高性能火薬も登場している。